「慣れ」は<あたま>から?それとも<からだ>から?
ご無沙汰しています.
ありがたいことに,知り合いの何名かから
「ブログの更新楽しみにしています(=しないんですか?)」というお言葉を頂いているので,
書いてみます.
企業で勤めている「わたし」と学生である「わたし」を行き来していることに大分慣れてきました.
「慣れた」という感覚を別の言葉で説明すると,
乗り物としての「わたし」という入れ物の「中身なるもの」を,意識的にスイッチングする感覚
です.
もう少し具体的に言いますと,
「火曜日は大学院で,講義・課題・研究の日.
この事柄はどういう意味を持つのだろう(考える)
この研究の関連の仕事はなんだろう(サーベイする)
これはまったくよくわからん,タスケテ(聞く)」
といった感じで認知していますし,仕事の日や時間は,
「金曜日は仕事.スケジューリングしていた仕事に取り掛かる日.
◎◎に関するミーティングでゴールは何で,次の行動はこれでっと(決める)
△△に関することの対応でこれは優先課題ですぐやろう(解消する,やる)
〜〜に関して,Aさんの悩みや展望を一緒に考えてやりくりをする(マネジメント)」
といった感じです.
「TO-DO(やること)」やその前提となる「思考回路」がだいぶ違うと感じています.
これが「中身」のスイッチング.
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しかし,ここで少し考えたいことがあります.
今僕は,「入れ物」と「中身」という分離可能なたとえを使いました.
が,本当にそうなのか?
よく「こころ」と「からだ」という言葉も使うと思います.
が,本当にそんな都合よく分けられるものなのか?
研究分野についてのご紹介をあまりちゃんとしていなかった*1のですが,
研究の興味に近しい事柄です.
「身体性」と「認知」は切り離せないものとして扱われることが多いです.
「身体性」*2の話をするとそれだけでゴリッと重くなりそうですので,また別で.笑
簡単に言うと,「身体があって,周りのものを触ったり感じたりして何かを知ること」です.
ふと気づくこととしては,「知ること」が「認知」に近いということ.
自分の身体を通じて得た情報をものとに外界を認知・認識する.
それが学習や適応につながるということです.
これが僕の思う「慣れ」に起こっている事柄の正体.
一見矛盾してそうですが,
「入れ物と中身」的な捉え方をもちつつも,「身体性と認知」という立場で自分の「慣れ」を見つめています.
大胆に言いますと,
「身体性を基に獲得した学習や適応」を「中身」的にパッケージ化し,入れ物である身体につなぎ変えている
という感覚でしょうか.
別の言い方をすると,「よく言われる”頭の切り替え”は実は,身体をも巻き込んでいる」ということかもしれませんし,<あたま>も<からだ>も総動員して状況に適応しようとしている事象が慣れの正体のような気がします.
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4月で新しい環境になり,5月になって「こなれてきた(?)」感覚をお持ちの皆様.
大型連休GWをあけて生活への慣れ(ともすると惰性?)を体感して疲れている方々.
自分の「慣れ」について冷静に見つめてみることで,
「慣れていない自分」やあたらしい可能性を見つけられるかもしれません.